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土と共に40余年
  〜花を咲かせ作物を作る〜

宮沢正和

★執筆した 内容
  自分自身が大嫌いだった農業。土地があり,親から威圧的に言われたとおり後継に入ってしまった心境を書きました。今では考えられませんが,私なりの苦悩から立ち上がるように温室園芸に活路を見つけ,父のりんご経営を変換,シクラメン栽培と野菜苗や花だん苗の経営を確立しました。

 苗生産については省略し,シクラメン栽培を重点的に書きました。今回の仕事録といっても,どちらかというと自分自身の経営よりもボランティア色彩が濃い仕事録になってしまいました。

 熊本県田浦町出身の鶴田さんとの出会いから有機農業啓発運動に走り,上田マルタの創設,有機JASの認承団体への関わり,生ごみ堆肥化運動,青年団活動,おひさまクラブとの関わり,大円寺の花だん作り,自治会のこと,海外視察旅行と,けっこういろいろな経験をさせてもらったと思います。投稿文が多くなってしまいましたが,読み返すと,何か説教じみた文が多かったようです。

★執筆した感想
  いろいろな経験をさせていただいた中に,多くの方のお世話になったことを痛感しました。まさか,このような仕事録の本が完成できるとは思っていませんでしたので,今は感無量といった心境です。深町先生,金子先生そして多くの皆様のご指導をいただいたからこそと思い厚くお礼申し上げます。

自分自身が生きてきた道が活字として残り,他人には読まれなくとも家族へ私の思いが伝えられることができ,本当に嬉しく思います。息子にパソコンを打ってもらい,本当にありがたく思っています。

★今後どのようにしていきたいですか
 終わったことで自分自身ひとつ区切りができたと思っています。今後息子に経営を任せ,今も続いているボランティア的な活動をしていきたいと思います。20余年前,初めて知った有機の世界,でも今もって世の中あまり変わっていないと思います。今後も土のこと,有機のこと,多くの人に関心を持ってもらえるよう語りかけたいと思います。

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ニイハオ・再見・テリマカシ(ありがとう)
  〜東南アジアの国々を巡って、折に触れて過ごした異文化の世界〜

山本美都子

★執筆した 内容
夫の海外赴任に伴い、東南アジアの国々で過した経験を綴った。

台湾   ‘74−76(S49−50)子ども2人(小学生)同行(約2年間)
 初めての海外は、学校の関係で親子3人台北で、夫は土帰月来、工場のある台中で過した。子ども中心の生活だった。
・歴史的な出来事:75/4月 蒋介石永眠

マレーシア  ‘90−92(夫婦のみ)(約2年間)
 約16年後、一日5回(夜明けから夜まで)コーランが流れる 常夏(赤道に近い熱帯地方)の国で。 季節の移ろいがないと、生活にメリハリが無くなる感じだった。
 シンガポールから始まり、マレーシアのリゾート地、島々を巡り、タイ国境の町コタバルで見た、日本軍上陸地点の砂に埋もれたトーチカ、記憶に新しい津波で流されたプーケット、東マレーシアのクチン、インドネシアのジャカルタ、バリ、そしてスマトラ島のメダンからトバ湖へ。主に旅行記である。
・出来事:91/1/17 イラン・イラク戦争

香港、中国   ‘93−03 夫のオフィスで、事務・会計
1年半後、夫は別会社へ転職 香港オフィス、工場中国東莞市 香港IDカード取得
・ 出来事:97年香港返還 99/1/17
・ 阪神淡路大震災(長女被災尼崎市在住、仕事場は神戸)
 夫は定年になり、リタイア。 帰国を取止めて香港で会社設立。 

 その後広州の日本企業に現地採用される。上海地方へ移動。
  03年7月 ケガで入院―現地病院での看病雑記

★執筆した感想
 ほとんどの時を普通の平凡な主婦で過してきた私が、何を書こうかと決めてないまま講座に加わり、そうだ、アジアの国で過した経験を書いてみようと思い立ったのであった。最初から構想はできていたのに、遅々として進まないまま、やっと本気で取組むのは大分後になったが、古い写真を見ながら忘れていたことが次々と浮かんできて、ライター方のアドバイスや励ましを受けながら、人間の記憶の確かさを実感しながら(覚えていないこともあるが)完成を楽しみにしている。ただの作文ではないこと。そして、その時々のメモなどの必要さを将来このような機会に生かせるようにお勧めしたい。
ちゃんとしたものを残してこなかった者の反省を込めて。

★ 今後どのようにしていきたいですか
 今度の講座で得たものは、それぞれに違うと思いますが、これからも多くの方に参加していただけるように、続けて貰いたいと思っています。
また、なにか新しいことにトライしたいと思います。

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地域づくりと教育の創造
  〜住民から学んだ人間教師の自己変革の軌跡〜

村山隆

 

 

★執筆した 内容
 京都府下 人口密度最低の過疎地・美山町は,今は「農山村の地域づくり」の典型として全国的に有名となった。当地に「職業科設置の昼間定時制高校美山分校」も立派に存続している。

 それは,かつての厳しい時代に奮闘した「農林業を中心にした地域づくり」を担う目覚めた住民の成果である。私はその分校に35年前(1973)に偶然赴任し,過疎化に抗する住民から学び地域教育を創造。実践の成果で,仲間と共に「廃校」を阻止したドラマの日々を証言。(教師論)

 

 

序文
1章 青春の模索と葛藤の日々
2章 今日への決意と茨の道
3章 採用された私立高校の講師
4章 京都府美山町との運命的な出会い
5章 住民要求で実現した定時制高校
6章 創造した地域再生の教育方針
7章 地域を蘇生させた教育実践
8章 地域に学び変わった現場教職員
9章 地域に生きる卒業生たち
10章 「定時制美山分校つぶし」に反撃
11章 学校の存続誓った「出版記念会」
12章 我が心の故郷よ,さようなら!
あとがき

★執筆した感想
 ・胸に溜まっていた14年間の「過疎地の定時制高校」でのドラマチック・泥まみれ実践について,心おきなく証言ができてはればれとしました。

・また「教師」を職業に決めるまでの青春時代の「模索と葛藤の日々」についても正直に告白できて,団塊世代の一証言が記録に残せて満足です。

・執筆を開始すると,当時の「事件」が次から次へと噴出して収まりがつかなくなり,相当に苦労して「上・下」の2分冊にしました。

・私は教師として真っ当な道を歩めた幸せを再確認できました。それゆえに共に支えあった仲間,教え子,地域の皆さん方への感謝が増しました。

・この機会を与えて下さいました「団塊世代の仕事録」の企画者に感謝申し上げます。親切丁寧なご指導・ご援助により完成できました。

★今後どのようにしていきたいですか
 先ずは,お世話になった方々に御礼,報告したい。
 『教師論』を具体的実践を以て示すことができたので,可能ならば現在の深刻な「教育問題」克服の一部に貢献したい気持ちがあります。
 嘗て40年前の「大学民主化運動」のまとめ(総括)を行いたい希望を持っています。私一人でなく全国的集団的に可能か模索したいと。
 次には『住民論』を書きたい。そのためには,現在の自然保護の実践(里山保全/ヤマンバの会)を地域に依拠して誠実に継続・発展させたい。

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市役所生活思い出すまま

坪田秀彦

★執筆した 内容
 第1章では,市役所に就職するまでを,子供のころからを思い出される出来事にからめて執筆しました。
 小学校時代の出来事では,別所小学校の火災,高校時代では三島由紀夫の割腹自殺事件が,浪人時代では連合赤軍の浅間山荘立てこもり銃撃戦事件がショッキングな事件でした。大学時代は,オイルショックで日本中が混乱しました。

 第2章では,市役所に就職してから,情報ライブラリーに異動するまでの30年間について執筆しました。
 最初に配属された資産税課では,必要に迫られて自動車教習所通いをしました。
 7年いた商工課ではいろいろな経験をしました。工業関係では東塩田林間工業団地の造成,テレトピアや浅間テクノポリス構想が実現されました。
 商業関係では大型店や中型店の出店反対運動が盛んな時期で,特にヤマダ電機の強引な出店には悩まされました。
 収税課では,納税組合から口座振替への切り替え時期に当りました。
 情報推進課では,県内でいち早く庁内LANを構築することができました。
 景観では,『上だの景観いまむかし・80選』写真集を発行完成しました。
 市誌編さん室では,『上田市誌』の販売に努めました。

★執筆した感想
 募集定員に余裕があったので,途中から参加しました。
  100ページ執筆するのは大変だと思っていたので,とにかく思い出すことを端から書き続けていったところ,いつの間にか大分ページ数をオーバーしてしまいました。 

 時期や数字を入れていくのには結構,日数がかかりました。
 一度書いてしまうと,今度は削るのが惜しくなり,縮めるのがまた一苦労でした。
 講師の励ましや助言がなければ,途中でギブアップしてしまったと思います。

★今後どのようにしていきたいですか
 時間があればまだ思い出せることがあるかもしれませんが,勤めている現時点では,これが精一杯です。


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