浅井洌「長野県師範学校生徒 修学旅行概況」

解説

はじめに

 「汽車はゆく…はるばると…若いぼくらの 修学旅行」と舟木一夫のヒットソングは懐かしいが、修学旅行はいつから、どんな目的で始まったのか。

 修学旅行という用語が法令上初めて現れたのは、1888(明治21)年の文部省訓令「尋常師範学校準則」だったといわれるが、長野県ではその前年、尋常師範学校で修学旅行という行事が行われた。修学旅行は汽車を利用しての旅行、宿泊を伴う旅行、研修を主目的に行う旅行の意に用いられた。1895年頃から小学校でも行われるようになり、大正期からは鉄道の開通により県外への大掛かりな修学旅行が多く見られようになった。その後、昭和初期の昭和恐慌期には下火となり、第二次大戦末期は中止されたが、戦後再び重要な学校行事となった。(『長野県百科事典』補訂版 昭和56年 信濃毎日新聞社編)

1「修学旅行概況」その1

 長野師範学校教諭浅井洌は、明治25年7月29日午前6時、師範学校南庭に整列した師範学校生徒、4・3・2年生94名(*1)を引率して修学旅行に出発した。長野駅に着くと「校長(*2)始め職員等、皆来り送らる。時針7時5分を指すや、汽笛高く響きて、列車起動し、漸く疾くして、漸く速かに、山送り水迎えて、篠ノ井、屋代、坂城を過ぎ、午前8時20分過くる頃上田に達し車を下る。停車場に上田高等小学校長久米由太郎君、先ず在りて我らが一行を待つ。即ち同行がせんか為なり。聞く一昨日の強雨にて、筑摩川出水せし故、大屋の舟橋撤去して、路通せすと、因て道を転し、上田橋を渡り、城下より東塩田に迂回して丸子村に出でんとす。…東塩田小学校に立寄り、暫時休止せり。校長は清水菊太郎君にして、保科百助君も亦此校に在り。」と出発第1日目の様子を記している。

 翌7月30日は「朝風雨、后晴、和田発上諏訪泊、道程凡7里」とある。和田宿を出発して「唐沢より扉峠を越えて松本に至る間道あり。明治戊辰の年松本藩、此地に仮関門を設けて、行路を譏視す。当時余も度々来り守りしが…」と、戊辰戦争出役を語っている。

7月31日は「曇、上諏訪発、杖突峠を経て高遠泊、道程凡8里」

8月1日は「朝曇少雨、后晴、高遠発、坂下を経て飯島泊、道程凡7里」

8月2日は「晴、飯島発、坐光寺村を経て飯田泊、道程凡7里」

8月3日は「朝曇、后晴、飯田発下河路村開善寺泊、道程凡2里」

8月4日は「朝曇朝曇、后晴開善寺発、天竜川を経て遠州二俣泊、道程凡21里」とある。

 その後「修学旅行概況」は8月5日から10日の1週間分の記載がなく、8月4日の後はいきなり8月11日の記録に飛んでいる。この間は天竜川を下って浜松に出て、東海道線で名古屋に向かい、「尾濃震災の跡に肝胆を冷やし」(*3)とあるように明治24年に発生した濃尾地震直後の名古屋まで行った。その後岐阜から中山道を北上して木曽に入ってきたところからまた記載されている。

「8月11日(木曜日)中津川発須原泊、道程凡10里」

「8月12日(金曜日)晴、須原発、王瀧泊、道程凡8里」

「8月13日(土曜日)晴、山上烈風暴雨王瀧発、登山して黒澤泊、道程凡11里」

「8月14日(日曜日)晴、黒澤発奈良井泊、道程凡8里」

「8月15日(月曜日)晴、奈良井発松本泊、道程凡10里」

「8月16日4時、或は5時猶後るるもありしか、5人、10人乃至20,30人相携へて、思い思いに出で立ちぬ。」とあり、この修学旅行記は終わっている。

 7月29日に長野を発って、8月17日に長野へ戻るという実に20日間の修学旅行であった。そして、就学旅行に参加した生徒は写真に見るように軍事教練のような出で立ちであった。開通間もない信越線、東海道線の汽車、それと天竜川舟行以外は全て徒歩によったもので、その距離200有余里の長途の修学旅行であった。

2「修学旅行概況」その2

 この旅行記の興味深いのは、宿泊した各地で地元、特に学校関係者が出迎えたり、宿舎に訪ねてきたり、差し入れしたりして一行を大歓迎していることだ。

 特に、8月2日に飯田に入ったところでは「飯田町に達せんとする時、宮下要太郎君も亦出て迎へて、共に飯田高等小学校に赴く。此地隊伍整列せる兵隊等の通過することなく珍しけれはにやあらん。至処来り見る者多かりしか、飯田市街に入れは、殊に途上観る者堵の如し。飯田学校には同校職員及び近隣諸校の校長訓導諸氏相集りて、歓迎せられ席既に定まり、氷及び茶菓の饗応あり。郡衙員地方有志の諸氏も亦之に加はりたりとか。」と述べている。

 この旅行記に登場する教師たちは凡そ20名に上るが、彼らこそが草創期の信州教育を担った教師たちで、『教育功労者列伝』に多くの名を残している。(『教育功労者列伝』信濃教育会 1935年)

 浅井はこの旅行記の随所にその土地の歴史、自然、風景等の記録を残している。 

 例えば、和田峠を越えると、元治元年11月20日に起きた武田耕雲齋率いる800名の水戸脱藩士と松本藩、諏訪藩との迎激戦の様を記し、杖突峠では「頂上迄は三十丁と聞けど、半腹以上斜面甚だ急にして其の名空しからず。…諏訪全郡の山川、悉く一瞥の中に集り…幾つらの漁船浮ひたるなんと眺望殊に言はん方なし。」と述べ、高遠城に遊んでは、「春時盛花の候は、仁科五郎信盛か武田氏の末路に当り、甲信の精英を此の一城に集めて花々敷最後の勇戦、忠死を遂げたる美観を見るが如く、…艶を競いて咲匂うらん様こそいと美麗し…大丈夫の赤き心をさくら花 いく春かけて咲き匂ふらん」と詠っている。

 この旅行記で浅井が最も多くのページを割いているのは天竜川舟行と御嶽登山だ。

 8月4日早朝、時又から天竜川を経て遠州二俣まで船行。伊原文平の通船会社が船5艘を準備した。一艘の乗客凡そ20人、舟子3,4人。舟の長さ三間余、幅四尺に過ぎない。7時過ぎに艫を解き、「舟の駛すること矢の如く、舟子は唯艪舳に在りて、舵を転じ方向を定めるのみ。然れども此の川両岸は絶壁峻険にして、水中所々に巨巖蟠くつし、加ふるに河身屈曲して、河床の斜面殊に甚だしく、水勢為に奔流へい逸し、激浪怒涛随所に絶ゆることなければ、舟子若し誤りて楫の方向を失すれば、扁舟忽ち微塵に砕けて」と艱難を極めた天竜川舟行の有様を記す。そして案の定、三遠信国境の辺で「俗に釜と言うあり。舟俄かに傾斜して殆ど覆没せんとし、小使徳武乙作及び行李数個水中に陥溺し」あわや遭難の危機に遭った。

 名古屋を後にし、木曽路に入った8月13日御嶽山登山に臨む。「午前2時整列して全員を三部に分かち、案内者をして松明を執り、その先頭に立ちて行かしむ。」しかし、5合目の辺から俄かに天気が荒れ始め、「最前よりいつとなく風烈しく吹き雲立ち騒ぎて、一天墨を流すが如く、千早振御岳の嶺も見えずなりぬ。…午前7時、天気益々悪しく冷寒に堪えず」となって、「鈴木志津衛中途より病む、強力を添えて黒澤に送り返す」事態となった。8合目を過ぎ9行目に至り「後者を呼び前者応え、互いに相喚び相答へて、…険路を登攀し午前10時、始めて絶嶺に達することを得たり。」しかし、下山途中また脱落者が出る。「病む人をのする車も馬もないし いかがはすべき木曽のおく山」と嘆きながらやっとの思いで午後6時過に、神官武居氏に投宿できた。

 8月16日、松本で一泊してこの修学旅行は解散したのだが、「凡廿日間、二百有余里長途の旅行に、身を炎天の酷暑に晒し、或いは天竜の激湍に神魂を驚かし或いは尾濃震災の跡に肝胆を冷やし、或いは御嶽の風雨に征衣の汚垢を洗い、朝には星を戴きて出て、夕には月を負いて駅に入り、敢て熟睡安息せざるも、一行皆健全にして無事に之を終ることを得たるは、誠に吾等無上の幸福なりとや言はん。又此行に於て、直接に、間接に得たる所の利益は蓋少小の間に止らすして、其の得る所費す所を補ひて猶余りあるべきは吾等の深く信じて疑はざる所なれ」と浅井はこの修学旅行を総括している。

3浅井洌と「信濃の国」

 浅井洌は長野県歌「信濃の国」の作詞者として有名だが、信州教育を代表する人物でもあった。嘉永2年、松本藩士大岩昌言の三男として生まれ、12歳の時浅井家の養子となった。長州征伐の軍にも加わった。松本藩学崇教館や江戸に学び漢学、国文歌詞に志す。明治6年、25歳のとき開智学校勤務。32歳の頃松沢求作の奨匡社創立委員。翌年松本中学校教員。明治19年、38歳の時長野県尋常師範学校出仕を命じられ、長野へ移住。 教師歴56年、小学校、中学校、そして長野師範学校教諭を40年にわたり務めた。90歳の長寿を保ち、昭和13年松本市の実家において永眠した。

「信濃の国」の作詞は「初め此の信濃の国を歌を作りましたのは、明治32年頃と思ひますが、…其動機は信濃教育会に於て、本県下に関する地理や歴史等の題を選び、それを長野県師範学校の国語担任の内田慶三君と私で手分けして作りました。深く考慮もせずに、只地理歴史の事柄を取合せて叙述したに過ぎません。…次いで、明治36、37年頃女子師範生徒(男女師範併置)が秋の運動会に此の歌を遊戯に用ひましたが、依田君(辨之助)の作曲あるを知らず、其の時の音楽教師北村季春君に作曲を請ひてそれを運動会の日に発表しました。それから此の歌漸次広まり小学校児童は勿論、子守も丁稚も途中を歌い歩くようになりました。」と遠慮気味に話している。(昭和9年NHK長野放送局に於ける草稿)

 県歌「信濃の国」の作詞には、県下各地を隈なく旅して、各地の歴史、自然、人物等に精通した浅井洌の姿と、「修学旅行概況」等の旅行記が投影されていることは想像に難くない。

(*1)長野師範学校卒業生  明治26年:男子32名・女子15名〜明治29年:男子31名・女子15名が当時の卒業生数で、この時代の県下の知的指導者層となった。

(*2)当時の長野師範学校長は浅岡一であった。

(*3)濃尾地震: 明治24年(1891)日本史上最大級の直下型地震が発生した。濃尾地方に甚大な被害をもたらし濃尾地震と名づけられた。

2012年7月2日 長野県図書館協会 宮下明彦

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昭和5年10月、日光へ修学旅行した府立八中の記念写真

(『修学旅行のすべて』昭和56年(財)日本修学旅行協会)より

http://ueda.zuku.jp/wiki/img/asai2.jpg

浅井洌共編の『国歌講本』奥付(明治35年 信濃教育会蔵

http://ueda.zuku.jp/wiki/img/asai3.jpg

「信濃の国」の歌碑が立つ歌が丘(長野西高校北方の回遊展望道路沿い)

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Last-modified: 2012-07-03 (火) 20:11:54 (4324d)