「信濃の国」作詞者浅井洌の旅行記・「犀川を下る」と「修学旅行記」

『犀川を下る』(『信濃名勝詞林』(村松清陰(信濃教育会)編、明治34年)

解説

信州は昔から峠と街道の国だった。江戸時代の街道を列挙すると、中山道、北国街道、北国西(善光寺)街道、甲州街道、三州街道、杖突街道、秋葉街道、糸魚川街道、野麦街道、十日町街道、大笹街道と十指を超える。 

古代の大動脈は東山道であり、万葉集に有名な「ちはやふる 神のみ坂に 幣(ぬさ)奉り 斎(いは)ふ命は 母父(おもちち)がため」は埴科郡の防人が、信濃と美濃の国境「神坂峠」で幣をまつり道中の無事を祈るとともに、遥か故郷信濃を望む惜別の歌で、古代の旅の困難さが伝わる。

中世においては、女人救済の善光寺信仰が広がり、女性の一人旅は「とはずがたり」を生み、曽我十郎祐成の愛人虎御前は善光寺参詣の帰り上田の呈連寺に庵を結んだ。

近世になると、五街道が整備され参勤交代が始まる。糸や佐渡の金を江戸へ運ぶとともに、行商、善光寺参り、そして文人墨客が街道を旅した。芭蕉の『更科紀行』、菅江真澄の『伊那のなかみち』、十返舎一九の『続膝栗毛』や『滑稽旅賀羅寿』はじめ、『諸国道中商人鑑』、『木曽街道六十九次』、『善光寺道名所図会』等の道中記が読まれ、寺子屋では「往来物」が教科書となっていた。

これから、信濃路の紀行文を近代から近世、中世、古代へと時代を遡り、未だ翻刻されていないものを中心に発掘しシリーズで取り上げていく。

1県下の鉄道建設
 「汽笛一声新橋を…」と鉄道唱歌に歌われたように明治維新政府は日本の近代化のため鉄道建設を急いだ。 政府は当初中山道沿いに幹線鉄道建設を計画した。その計画は碓氷峠を越え、小諸−大屋−鹿教湯−保福寺−松本−木曽−中津川−大垣−京都というルートだったという。そのための建設資材を海運により直江津港に運び、資材運搬用の鉄道を上田まで建設することとなり、明治21年8月直江津線長野−上田間が開通した。その後、東京と信越地方を結ぶ重要路線として、難関の碓氷峠をトンネル、橋梁工事で貫き、明治26年に信越線が全通した。(*1)

(中山道幹線鉄道計画はその後、建設費等の理由で東海道に建設されることになった。期待していた中南信の人たちの失望は大きかったが、住民の熱は中央線建設、民営鉄道(伊那電気鉄道)敷設運動へと発展していく。)

 今回は信越線が全通し、篠ノ井線の建設が進み、長野県の交通革命が進捗していた頃、それまでの徒歩や馬の旅、千曲川通船や犀川通船の乗合船の姿が消え去っていく頃、明治25年、32年に「信濃の国」作詞者浅井洌が残した旅行記・「犀川を下る」と「修学旅行記」を取り上げる。

2浅井洌の旅行記「犀川を下る」 (『信濃名勝詞林』(村松清陰(信濃教育会)編、明治34年、県立長野図書館蔵)

(1)出発
長野師範学校教諭の浅井列は明治32年に松本の実家から犀川通船会社乗合船で長野へ向かった。その冒頭は「明治32年8月14日、長野に赴かんと早朝5時30分、長男孚と甥の誠喜とを伴ひて松本町北馬場なる大岩の実家をいで立つ。おくりすとて、…人々打連れて、巾上(*2)の船に乗るべき所まで来給へり。船の契符を買ひて船に乗るに、乗る人猶多ければ、俄かに船を増して、…見送りの人々に別れのことばをかわすうち、船はとくゆるぎてこぎはじめぬ。「遠からぬ道の別れと思へとも 心は跡に残りぬるかな」」とあり、 船は田川と奈良井川の合流地点を過ぎ、新橋で更に乗客を乗せて進んだ。

(2)途中
奈良井川は現在の高速道梓川SA北方で梓川と合流し、梓川となる。その梓川は押野で安曇節(*4)で謳われるように高瀬川と合流し犀川となる。さて、乗合船上は「今朝はからずも、もとわが家塾に在りし松田嘉重氏と船を共にして来たりしが、氏は今白坂隋道の工事に従えりとて、ここより別れさりしに、まもなく又来りしが、何か忘れたるにやと思ふほどに、酒と梨とをもて来りて、船の心やりにとて、おくりくれて立ち去りぬ、こころざしいと忝し。ゆくゆくその酒をおのれも飲み、傍の人にものましめたれば皆えひて眠りふすもあり。」と暢気で長閑な乗船の様子が描かれている。

乗合船は信州新町が到着点だった。「とこうしてこぎ来るほどに遥かに新町も見え染めぬれば倦み果てぬる人々の心もとみに喜びの色にあらわれたり。かくて午後1時30分に船は事もなく新町に着きぬ。…人々別れも告げず、われ先にと船をおりて、あるは飲食店に行くもあり、或るは氷水に咽をうるほすもあり、または馬を雇いて乗るもあり。」と信州新町の賑やかな様が描かれている。浅井たちはその後は歩いたようで、「右して水内の久米路橋に来ぬ。此橋は拾遺集によみ人しらず「埋木はなか虫はむといふめれは久米路橋のはしは心してゆけ」とありて…」と続く。その後信更の峠を越えて善光寺平を望んだ。

(3)篠ノ井停車場着
「ここよりは下り路なれば足も進みやすし。田の口を過ぎ石川に来り、右すれば篠ノ井の宿に至る本道なれども左してまた右に折れ里道を経て停車場に出づ。時に午後5時過ぐる頃にて、長野下り汽車の出でたつは5時50分なれば停車場前の茶店に休ふ。此地中央接続線の鉄道工事始りしより人さはになりて家居も数まし朝け夕けの煙立そひぬるも進みゆくみ代のしるしにこそ。」と篠ノ井停車場の様を伝えている。

(4)長野駅着
「呼子の笛の音に汽車またゆらぎはじめ、つぎつぎに早さをまして、とき風の枯野をわたるがごとく、忽ちにして犀川、たちまちにしてまた裾花川の鉄橋も過ぎて汽笛の音一声高くひびけばはや長野停車場に来つきぬ。…斯て妻科の仮すまいに帰りしは6時30分なりき。」とあってこの旅行記は終わる。

(*1)その後、県下の鉄道建設は明治35年に篠ノ井線、明治39年に中央東線、明治44年に中央西線がそれぞれ開通した。(田中博文著『信州はじめて物語』より)
(*2)巾上(はばうえ) 女鳥羽川と田川の合流地点。篠ノ井線松本駅西口から約200メートル北西の辺。 船の発着所があった付近には今も「入船ハイツ」等の名残を留める。
(*3)女鳥羽川(めとばがわ)  「女鳥羽の岸に佇みて 君よ聞かずや雪解けを 春は輝くアルペンの…」と旧制松高寮歌にも多く登場する女鳥羽川は松本中心街を流れ市民、学生に馴染み深い。
(*4)安曇節「槍で別れた梓と高瀬 巡り会うのは 押野崎 チョサイ コラサイ 」
(*5)江戸から明治、大正期まで千曲川通船、犀川通船が物資や人を運ぶ動脈となっていたが、江戸時代は通船を推進しようとする有力者と、反対する問屋、宿場関係者 との対立は藩や幕府・代官所も巻き込んで長く抗争が続いた。

平成24年6月17日 長野県図書館協会 宮下明彦

所蔵館

『犀川を下る』(『信濃名勝詞林』(村松清陰(信濃教育会)編、明治34年)
県立長野図書館蔵

http://ueda.zuku.jp/wiki/img/12.6.17a.jpg
『信濃名勝詞林』(村松清陰(信濃教育会)編、明治34年、県立長野図書館蔵)

http://ueda.zuku.jp/wiki/img/12.6.17b.jpg
帆をはらませた千曲川通船(『千曲川の今昔』 千曲川河川事務所監修 p167より)


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Last-modified: 2012-06-20 (水) 16:54:47 (4337d)